水槽に帰らせて

水槽脳仮説信者

「オーダーメイド世界」に憧れて

希望と絶望と花粉に満ちた季節ですね。休みの子供がとっても元気です。
春ということで、今回はブログタイトルの水槽脳信仰の話です。情緒不安定なので妄執を吐き出す。アクと思想強めです。
まあ私の自殺を崇拝する根幹の話ですし、お気軽に。

 

自分しか信仰してない宗教と、精神病の妄想は何が違うのか。一言で言えば、私にはその区別が付かないというだけである。

 

隣の人が見ている世界と自分の見ている世界を共有できている実感がない。主観を擦り合わせる作業が上手くいった試しがないからかもしれない。
いや、これは単純に現実を受け入れられていないのだろう。哲学的ゾンビ? 本来なら思春期で卒業していなければいけない問題が、未だに納得できずにいる。

しかし、「受け入れますか?」とインストールできるものでもないので、ずっと異物としてアクリルガラス一枚向こうにある。幼稚園のときは妄想の中に生きていたが、小学生ぐらいからはその具体的心象がある。


私にとって、世界は物語だった。というか描かれた物語のほうがよっぽど世界らしかった。情報は記録化されたことで俯瞰でき、シーンに外から感情移入をする。眺めてシミュレーションをすることが、自分が実際に行動するより自由なのは言うまでもないことだ。人は脆弱な癖にターンは一度きりなので、何度もリプレイできる世界のほうが愛着も湧く。想像もできないことには丁寧に補助線がついていて、似たような物語を読むと「普通」の傾向や反応がわかる。
私にとって、読書、特に小説は一番の学習元だった。それは大抵の人がしていることだろう。ただ自分は現実に反映されることなく、キャッシュだけが脳に貯まっていった。
小説は自分のペースで進む世界だ。だって私は観察者だ。メタ表現も演出であり、マジックは心地良く騙されるためにある。例え内容が複雑回帰だとしても、言葉にされている以上手掛かりがある。そして、文章の並列的表現はそんなに流行らないのだ(実験的に書かれる小説はあるけど)。


現実は脳に優しくない。とかく情報量が多い。マルチタスクは当たり前、すべてのことに意味はない、その癖細かいことが後々の伏線になる。行動一つ、自分以外の他人のこと考えないといけないらしい。
一番耐えられなかったのは、他人は自分のことを勝手に評価して近付いては離れていく。自分の把握できないところで、自分の変数が変動する。なのに一方的に観察することは、主観プレイでは怒られたり気味悪がられるんですよ。
理由: 現実だから。
これが気に食わない。というか理解できなくて怖い? だってプレイヤーに立候補した記憶ないんだもん。なんで勝手にプレイヤー扱いしてくるの?
自分すらコントロールできない・している実感もないのに、周りに勝手に動かれちゃあ困るじゃないですか。だけど現実の人たちはなぜか適応している。周囲を含めてリアルタイム演算して適切に行動する。それが「普通」らしく、私には無理だった。自分がもたらす変化、他人が与えてくる影響。それら膨大な変数を演算する能力がない。

自分か他人のことがわからないと現実って上手くやっていけないんですよね。結局LINEに友達一人もいないし、バイト先ではクレーム来るし、とにかく異物扱いなので疎外・除外されまくる!
これで「まあ他人なんてどうでもいいや」と思えればよかったのですが、当時の自分としては真面目に馴染もうとして失敗してたので普通に苦しかったです。他人からしたら当然の防衛なのだろうから、本当に悲しい。


高校生のときでしょうか。考えれば考えるほど、自殺をしなければならないという結論になりました。人生適性もあるけど、何よりこれ以上自分を傷付けないために死んだほうがいいことがわかった。
といっても心療内科に行くほどでもなく、そもそも無職ニートで一人暮らしできてる時点で全然恵まれている方だと思うんです。
でも私、それ以上にこの世で最高に自分に甘い自己中なんです。
自殺するとなると痛みと死んだあとが気になるじゃないですか。首吊り動画とか見ては痙攣で怯え、飛び降りはバンジージャンプと矛盾するんじゃないかと疑問を覚えてました。あと、時期はやっぱり親死んだあとにしないと駄目かなとか。
そういうことを踏まえて、薄闇の中で自殺方法の検討をしていた。そうすると余計なお節介なページに混じって、哲学っぽいサイトが出た。たまーにありがたき先人の言葉だったりするので、なんとなく文字の行間が胡散臭いページを辿って読み進める。
その中に「水槽の脳」があった。前から私は厨二病を拗らせていたので、水槽の脳は名前だけ覚えていた。Googleを開いて、もう一度検索ボックスに入れる。

 

水槽の脳とは


私達は高性能コンピューターで神経を制御された水槽の中だとしても、世界自体が5分前に作られて頭に植え付けられた設定を信じ込んでいても、実際のところなんて知覚なんてできない。意識の実在性など主観からどれだけ喚けど証明できない。

 

…はい、世界5分前仮説と合わせて、盛りに盛った意訳です(5分前仮説も大好き)。一応添えておきますと、所詮これは思考実験です。つまり私達の体験は夢でないと否定できないように、夢であるとも言えない。悪魔の証明で、それの実際は議論の本題ではなく無意味かもしれません。
だからこそ、水槽脳で救われたんです。その可能性があることがあること、それを否定できないことで安心した。私が見てる世界は全部電気信号で外部から創造された幻覚だったら、私が知覚してる不幸も幸福も他人に影響与えていないでしょう。最初から一人相撲なんだから。
そして一人一人に世界があると信じられるということは、全人類分の幸福が両立するということでもある。人の欲望は衝突する。人は相対でしか価値を測れないので、誰かが一番になれば誰かのトロフィーは奪われる。こんなに悲しいことはない。

でも、水槽の中なら幸せな夢で満たされている。実際どんな信号が送られているか、内側の私からは観測できない以上、そう信じることしかできない。だけど、苦しい現実で叶わない夢を信じるよりは望みがある。

 

つまり、私は平和主義なのでこれをここまで読んでくれた方が、一切の苦痛ないことを祈っているのです。

 

水槽脳を信じるようになって、少しは気が楽になりました。だって、脳の持ち主の主観が電気信号を止めたところで、私が知覚する世界が止まるだけで誰にも迷惑掛けないのですから。隔絶された水槽の中では自分の幸せだけを追求してもいいのです。
そうなると考えるべきことは主観の痛覚だけです。できれば死ぬ前に電気信号側で痛覚を止めてくれよと思うのですが、まあ私にこんなシミュレーションさせる神様なんて性格いい訳ないですし。
他の人の水槽だけは幸せであってくれよ! これ以上の不幸を生み出さないで!
個人としてはしょうがないので第一希望 安楽死、第二希望 ○○○○、第三希望 定型吊りとしています。今年の予定日は延期しちゃいましたけどね😝

 

中学生で時が止まったので、都合良い哲学を前に幼稚に回り続けている。自己正当化の理由がなければ自殺すらできないなら、最初から普通に生きろと言われるかもしれない。なんだけど、他人の心理を推し量れない私には、他人を傷付けるか先回りして自分を守るしか選択肢はないと思う。

自分の主観で排斥しないでと言ったとて、してる側からしたら「なんで?」なんだよな。私が同じことを他人に思うように。
だから水槽脳主義は、せめて他人は私を認識しないBotでいてほしいというわがままなのかもしれない。私ごときに傷付くな、私なんていなくても何一つ変わらないと証明しろ。
そうして、私が望んだ「私のいない世界」という最高の幸福を見せてよ!
もしも水槽脳の先があるなら、観客席から野次を飛ばしながら全人類分の人生の観察だけしたいんです。

 

ほら、私、人間の紡ぐ物語大好きなので。

 

歪んだ妄想の中で生きてる、なきなすでした!